蔡倫

(さいりん)(50年ころ~118年ころ)

【中国で製紙法を改良】

中国の歴史書である「後漢書」によると、西暦105年に中国の蔡倫(さいりん)という人が紙を作り和帝に献上したとされています。このため、紙の発明者は蔡倫であると言われてきましたが、近年の考古学分野等の発展に伴い、紙は既に紀元前2世紀頃から中国で作られていたことが分かっています。蔡倫は、製紙法について改良を重ね、木の皮や絹のくずなどを砕(くだ)きドロドロに水にとかし、これを薄(うす)く伸(の)ばし乾(かわ)かして、質の高い紙を作ったと考えられています。中国で普及した製紙法は、戦争で捕虜(ほりょ)となった兵士から、アラビアに伝わり、やがて十字軍によってヨーロッパに伝えられました。

ヨハン・グーテンベルク

(1398年ころ~1468年ころ)

【ドイツの発明家】

グーテンベルクの考えた印刷術は、小さな活字を組み合わせて1ページ分を印刷すると、次にそれを分解して次のページの分を組み直すというものでした。これで、限られた活字で多くの印刷物をつくることが可能となり、かつ短時間でできるようになりました。当時のヨーロッパには、中国で発明された紙が広まってきていて、それが印刷術の実用化を助けることになりました。

ニコラス・コペルニクス

(1473年~1543年)

【ポーランドの天文学者】

ポーランドで数学と美術を学び、その後イタリアに行って医学・宗教・天文学を学びました。
コペルニクスは、宇宙の中心に地球ではなく太陽をもってくれば、さまざまな疑問が解決できるのではと考え、この新しい考え方による惑星(わくせい)の位置の計算法を数学的な方法で確立しました。これによって、それまでの天動説では説明がつかなかった惑星の奇妙(きみょう)な動きが、うまく説明できたのです。これが地動説です。コペルニクスの地動説は、中世の科学観を追放するきっかけとなりました。

レオナルド・ダ・ヴィンチ

(1452年~1519年)

【イタリアの芸術家】

モナ・リザや最後の晩餐(ばんさん)で有名なレオナルド・ダ・ヴィンチ。レオナルドは、絵画や彫刻(ちょうこく)、音楽などのすぐれた芸術作品を残した芸術家でしたが、いっぽうで、発明家としての顔も持っていました。当時、フランスと軍事的対立にあったミラノ公国のために、戦車や飛行機などの数多くの発明をし、「万能の天才」といわれたのです。

エヴァンゲリスタ・トリチェリ

(1608年~1647年)

【イタリアの物理学者】

ガリレオと交遊のあったトリチェリはガリレイが、ポンプはなぜ9メートル以上には水をくみあげることができないかいう課題に取り組んでいることを知り、水がくみ上げられる高さは空気の重さ、つまり大気圧によって制限を受けるからではないかと考えてました。これを証明するために一方の端(はし)を閉じた120センチメートルのガラス管を水銀で満たし、親指でふたをして水銀の入ったはちにさかさに立てました。親指をはなすと水銀ははちの中に流れ出しましたが、ガラス管の外を下方向におす空気の圧力のために、約76センチメートルの水銀をガラス管内に残して止まりました。空気の重さは水銀柱760ミリメートルの重さに等しいということを実験で証明したのです。この時ガラス管内の上部に真空ができました。これは"トリチェリの真空"とよばれています。
また、トリチェリは水銀柱の高さが日によって少しずつちがうことに気がつきました。これにより「大気圧の変化が水銀柱の高さに反映している」という結論を導いたのです。これが世界で最初の水銀気圧計です。

アイザック・ニュートン

(1642年~1727年)

【イギリスの哲学者(てつがくしゃ)・数学者】

彼が書いた科学書”プリンキピア”には、有名な運動の三法則が幾何学(きかがく)で証明されています。 第一法則は慣性の法則で、すべての物体は外から力が働かないかぎり、静止状態あるいは一定の運動状態を続けるというものです。第ニ法則は力を質量と加速度で表したもので、物体の質量と重さが明確に区分されています。第三法則は作用と反作用はつねに逆向きで相等しいというもので、ロケットが飛ぶのはこの法則によるものです。この第三法則から、ニュートンは地球と月の引力を計算する方法をみちびき出し、これが宇宙のどの物体の間にも働くとしたので、万有引力の法則とよばれています。
万有引力の法則によって、天体がさまざまな動きをするのは、太陽の引力とそれぞれの天体間の引力が重なるからだということが説明でき、月の複雑な運動も説明できるようになったのです。

関孝和(せきたかかず)

(1640年ころ~1708年)

【江戸(えど)時代の数学者】

幕府の勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)や御納戸組頭(ごなんどくみがしら)を務めながら、独学で中国の数学の本を研究し、「点竄(てんざん)」と呼ばれる筆算の方法を考案したり、高度な行列式の理論を発表しました。孝和の行列式の研究は世界で最初のものであり、内容的にもすぐれていたといわれています。また、彼は円の研究にも取り組み、円周率を少数点以下11桁(けた)まで割り出したり、さまざまな曲線で囲まれた図形の面積や体積などを精密に計算しました。
こうした孝和の研究は、当時の数学のレベルを高めるとともに、日本独自の数学である和算を発展させる土台ともなりました。

リチャード・アークライト

(1732年~1792年)

【イギリス産業革命期の発明家・企業家(きぎょうか)】

床屋(とこや)の職人をしていた若い頃(ころ)に、かみの毛をそめる独特の方法をあみだし、財産を築きました。1769年、ハーグリーヴズの紡績機(ぼうせきき)を改良して特許をとりました。これは、それまで人力にたよっていた紡績機を機械的に動かせるようにしたもので、この機械は最初は動物、次に水力、1790年に、蒸気機関によって動転されるようになりました。アークライトはこれらの機械を使って紡績業(ぼうせきぎょう)を営み、産業革命の結果あらわれた最初の資本家となったのです。

ジェイムス・ハーグリーヴズ

(1720年ころ~1778年)

【ジェニー紡績機(ぼうせきき)を発明したイギリスの布織り職人】

娘(むすめ)がひっくり返した紡(つむ)ぎ車が、垂直に立ったままスピンドルもろとも回転しているのを目にして、多数のスピンドルが直立していれば、数本の糸を同時に紡(つむ)げると考えついたといわれています。これがジェニー紡績機(ぼうせきき)の開発のきっかけといわれています。ジェニー紡績機は、旧式の機械にくらべて生産能力が8倍もあり、かつ、しくみが単純だったので子供でも使いこなすことができました。

ベンジャミン・フランクリン

(1706年~1790年)

【アメリカの科学者】

フランクリンは絹のハンカチで凧(たこ)を作り、その上部に約30cmのとがった針金をつけ、これを長い麻糸(あさいと)で揚(あ)げるように用意をしました。1752年7月のある日、雷(かみなり)が家の近所を通っていくので、凧とライデン瓶を持って、凧を揚げました。凧糸(たこいと)に使った麻糸の繊維がちょうど帯電したように直立したときに、こぶしを麻糸に取り付けられた鍵に近づけると、こぶしと鍵の間に小さい電光が飛ぶのが見えたのです。次に麻糸を通してライデン瓶を充電し、この天然の電気で、人工電気と同じ試験を行い、両方が同じものであることを証明しました。これによって、雷が放電現象であることが確認されたのです。

カール・リンネ

(1707年~1778年)

【スウェーデンの植物学者】

医科大学の学生時代に植物のおしべとめしべに関心を持つようになり、植物を生殖(せいしょく)器官で分類する方法を考えつき、スカンジナビア半島や西ヨーロッパを歩きまわってさまざまな動植物を観察し、1735年『自然の体系』を発表しました。この本の中で種と種の異なる点を簡明な記述方式で指摘(してき)し、それぞれの生物が属する群の名「属」を最初に、その種の名を二番目につけてよぶ分類法を発表しました。これは二名法といわれています。さらにリンネは、関連のある属を集めて綱(こう)とし、綱を集めて目とするようにこの分類を発展させ、生物の体系を一本の木のようにあらわせるようにしました。
リンネがつくりあげたこの体系は、生命が単純なものから複雑なものへと進化していったということをあらわすもので、これらの業績により、リンネは現代植物学の創始者といわれています。

アレキサンドロ・ボルタ

(1745年~1827年)

【イタリアの物理学者】

ボルタは蓄電器(ちくでんき)の製作(1782)、微量の電気を検出する検電器の製作(1782)など電器学分野ですぐれた業績をあらわしました。これらの機器を使って基本的な実験を行い、1800年にボルタの電堆(でんたい)を考案し、初めて化学作用による電流の発生に成功しました。これが「電池」の発明であり、電流の化学作用(水の電気分解)、電流の磁気作用などの電流の様々な現象の研究に貢献(こうけん)をしました。電圧の単位ボルト(V)は彼の名前にちなんだもので、1881年に電気学者国際会議で採用されたものです。

サミュエル・スレーター

(1768年~1835年)

【アメリカ産業革命の父】

特許制度による技術公開がなかった時代、技術を伝えることはまさに命がけの仕事でした。18世紀後半、イギリスは、産業革命によって築いた技術的な優位を保つため、設計図や生産機械の輪出や、技術者の移民を禁止し、国内の技術情報が海外に出ていかないようにしました。いっぽう、イギリスから独立したばかりのアメリカは、産業を発展させるために、最新の技術情報を手に入れる必要に迫(せま)られていました。この窮状(きゅうじょう)を救ったのが、「アメリカ産業革命の父」と呼ばれるサミュエル・スレーターです。彼は、国外持ち出し禁止の設計図の詳細を暗記して、決死の覚悟でアメリカに渡り、技術を伝えたのです。そして自分の記憶(きおく)だけを頼りに、アークライト式紡績(ぼうせき)機を再製し、1790年にアメリカで最初の紡績工場を創業。アメリカ産業革命の先駆(さきが)けとなったのです。

ジョセフ・プリーストリー

(1733年~1804年)

【イギリスの牧師、化学者】

プリーストリーは隣(となり)の酒酸工場の発酵(はっこう)おけから絶えず発生しているもの(二酸化炭素)に興味をもち、これについて実験を行いました。これをきっかけに様々な実験装置を開発し、10種類以上の気体(塩化水素、アンモニア、水素、一酸化炭素など)を発見し、その性質を研究しました。当時、知られていた気体といえば、空気、二酸化炭素、水素だけでした。彼の最大の発見は、1774年に大型凸(とつ)レンズを使った実験によって酸素を発見したことでした。彼は実験で得られた気体(酸素)の中ではろうそくの炎が大きくなることを発見したのです。当時はこの事実が何を意味するのかわからなかったのですが、この気体中でのハツカネズミの生存時間を測定する実験等により空気よりずっと良質な気体であることを確認、「脱(だつ)フロギストン(燃素(ねんそ))空気」と名前をつけたのです。これが今でいう「酸素」です。

ジョージ・スチーブンソン

(1781年~1848年)

【世界最初の鉄道と蒸気機関車を生み出したイギリスの発明家】

スチーブンソンのつくった蒸気機関車が、乗客をのせた車両を引っ張り、世界で最初の営業鉄道路線が開業したのは1825年9月です。”ロコモーション号”はダーリントンからの乗客をのせ、時速18キロの速さでストックトンまで走りました。なお、この時、レールの幅(はば)を1.4メートルとしましたが、これが今なお世界の鉄道で標準として採用されています。

ジョン・ドルトン

(1766年~1844年)

【イギリスの化学者】

ドルトンはすべての物質が粒子(りゅうし)から成立していると考えました。彼の原子論は、すべての元素はそれ以上分割できない原子の集合から成り立っていて、結合の状態を変えることで、ある物質を他の物質に変えることができるというもので、それを史上最初の原子量表(相対原子質量を測定したもの)と化学記号によってうらづけました。この「原子説」が、近代物理学のもとを開きました。

ニコラス・ルブラン

(1742年~1806年)

【フランスの化学者】

1700年代前半、炭酸ナトリウムの原料は木灰でしたが、森林の減少にともない資源が不足するようになりました。そこで、植物資源によらない炭酸ナトリウムの製法が懸賞(けんしょう)募集(ぼしゅう)されました。この時、彼はのちに「ルブラン法」と呼ばれる工業的製法を発明し、これに応募(おうぼ)しました。これは、食塩で硫酸(りゅうさん)を分解して硫酸ナトリウムを作り、これを白亜(はくあ)と木炭によく混合して加熱し、その結果できた「黒灰」を水にひたし、できた炭酸ナトリウムを蒸発によって取り出すものでした。1791年にはこの製法の特許も取りました。
これによりガラス工業は大きく発展し、ソルベーによって新たな製造法ができるまでの1世紀以上もの間、無機化学工業の基となりました。

ウィリアム・ハーシェル

(1738年~1822年)

【ドイツ系イギリスの天文学者】

天文学に興味をもっていましたが、望遠鏡を買うお金がなかったため、自分で望遠鏡をつくることを考え、妹の助けをかりて当時としては最高の望遠鏡を完成させました。
この望遠鏡を使って観測を続け、1781年に新しい惑星(わくせい)、天王星を発見しました。
彼は接近した二つの星、連星の観測を続け、この二つの星は見た目だけではなく実際にも接近していて、かつ回転していることを確認しました。そしてこの星の運動にも、ニュートンの万有引力の法則が適応できることを確認しました。
望遠鏡を使って太陽光線のスペクトルの温度変化を研究していて、赤外線の存在を発見しました。

マイケル・ファラデー

(1791年~1867年)

【イギリスの物理学者・化学者】

物理学において電流と磁気との関係について研究し、磁場から電流を起こす電磁誘導(でんじゆうどう)に成功しました。それまでに、誘導(ゆうどう)コイル、変圧機、電気モーターなどの原型を発明していたですが、この成功のおかげで1831年に、磁石とその両端の間で回転する銅版からなる、最初の発電機を完成させることができたのです。

ロバート・フルトン

(1765年~1815年)

【アメリカの発明家】

画家をめざし、イギリスへ渡りましたが、イギリスの技術者たちと交流するうちに、技術開発の仕事をするようになりました。 フルトンは蒸気で船の外につけられた輪を回して船を進める外輪船を設計し、フランスのセーヌ川で実験しましたが失敗してしまいました。1806年にアメリカにもどって、ふたたび蒸気船の研究に取り組み、一年後に、蒸気外輪船「クラーモント号」を完成させ、ハドソン川をさかのぼることに成功しました。平均時速は8キロメートルで、ニューヨーク~オールバニー間を32時間かけて航行しました。汽船は大西洋岸でも、そして太平洋岸でも使用されるようになりました。

サミュエル・モールス

(1791年~1872年)

【アメリカの発明家】

1830年代に、電信機をつくろうと決心し、有名な物理学者ヘンリーに電気の知識を教わりました。モールスはボルチモア・ワシントン間に電信を通そうと考え、議会を説得して資金を得ました。1844年に世界で最初の電信機を完成させ、モールスが自分で考えた点と線からなる符号(ふごう)で最初の通信をしました。この符号はモールス符号とよばれ、現在も使われています。

モンゴルフィエ兄弟

(兄)ジョセフ・モンゴルフィエ(1740年~1810年)
(弟)ジャック・モンゴルフィエ(1745年~1799年)

【フランスの発明家】

煙(けむり)が軽い物体を上昇(じょうしょう)させるのを見て、気球を考え出しました。1783年、兄弟は大きな麻(あさ)のふくろに熱した空気を入れ、1800mの高さまで上昇(じょうしょう)させることに成功しました。その後、水素を使った気球が人間を乗せることが流行しました。

ルイス・ダゲール

(1787年~1851年)

【フランスの写真発明者の一人】

本職は画家でしたが、しだいに写真術研究に関心を移していきました。彼は偶然(ぐうぜん)のことから露光(ろこう)させたヨウ化銀板に水銀蒸気をあてると、見えない被写体(ひしゃたい)が現像されることを発見、さらにヨウ化銀にかえて臭化銀(しゅうかぎん)や塩化銀をまた、食塩の飽和溶液(ほうわようえき)を使うことで、映像を固定することに成功、銀塩写真を発明しました。これによって写真術原理の基礎(きそ)を確立しました。

伊能忠敬(いのうただたか)

(1745年~1818年)

【江戸(えど)時代の測量家】

50歳(さい)から、幕府の天文方の高橋至時のもとで、天文学や測量学の勉強を始め、わずか数年で、「推歩(計算)先生」とよばれるほどの力をつけました。
55歳のとき、地球の子午線(緯度(いど)一度)の距離(きょり)を割り出すために、自費を投じて測量の旅に出たのが、日本全図をつくる第一歩となりました。以後、17年間の間に、3万3724キロメートル以上の距離(きょり)を歩き回って全国を測量し、日本地図を完成しました。
忠敬が測量に使った道具は、磁針や方位盤(ほういばん)などかんたんなものでしたが、その地図は現在の地図とほとんど変わらないほど正確で、彼の死後40年のちに、日本沿海の測量にやってきたイギリス船隊が”伊能地図(いのうちず)”の正確さ、精密さにおどろき、何もしないで帰ったと伝えられています。

華岡青洲

(はなおかせいしゅう)(1760年~1835年)

【江戸(えど)時代の医学者】

医師であった父が「全身麻酔(ぜんしんますい)のできる薬が欲しい」となげくのを聞き、全身麻酔薬の完成を生涯(しょうがい)の目標に定めたといわれています。京都で、漢方医学の内科とオランダ流の外科を修得、故郷にもどると麻酔(ますい)の研究に取り組み、当時、鎮痛(ちんつう)薬や睡眠(すいみん)薬として試用されていたマンダラゲ(チョウセンアサガオ)の調合法を改良して、強力な麻酔(ますい)薬をつくり出しました。その効果と安全性を確かめるために、妻と母が何度も実験台となり、ついに全身麻酔(ますい)薬「通仙散(つうせんさん)」が完成しました。
青洲(せいしゅう)は「通仙散(つうせんさん)」を使って、1805年に世界ではじめての全身麻酔による乳がん手術に成功。さらに足の切断や結石の手術にも成功しました。

エイブラハム・リンカーン

(1809年~1865年)

【アメリカ合衆国16代大統領】

アメリカは、1787年の憲法制定当初から、「議会は、科学及(およ)び有用な技術の進歩を図るため、発明者に対して一定の期間、独占(どくせん)を与(あた)える権限を有する」という規定を憲法の中に設けており、建国の頃(ころ)から発明の保護・奨励(しょうれい)に熱心な国として有名です。のちにアメリカの第16代大統領となったリンカーンも、1846年に自分の発明で特許を取得したほどです。リンカーンは、1859年の演説では「特許制度は、天才の炎(ほのお)に利益という油を注いだ」と述べています。この言葉は、今でもアメリカ商務省の入り口に刻まれており、特許を通じて発明家に資金を供給し、どんどん発明を生み出そうという気運を高めました。そして、南北戦争が終わった1865年から大恐慌(だいきょうこう)時代が始まる1929年までの間に、ベルの電話(1876年)、エジソンの白熱電球(1879)、イーストマンのコダックカメラ(1888年)、ライト兄弟の飛行機(1903年)、ベークランドのプラスチック(1909年)などの発明が次々と生み出されていったのです。

ニコラス・オットー

(1832年~1891年)

【ドイツの内燃機関研究者】

ケルンで商人をしていたが、1861年にJ.J.ルノアールのガス機関のことを知り、大型の蒸気機関にかわる原動機として、小工場用のガス機関の発明を思い立ち、4サイクルの小さいガス機関を試作しました。これに改良を加え1967年のパリ万国博覧会に出品したガス機関は、ルノアールのガス機関より高性能であることから金メダルをとりました。その後、1976年に実用エンジンとして4サイクル式ガス機関(オットーガス機関)を発明しました。これが現代のガス機関の原型となりました。

アルフレッド・ノーベル

(1833年~1896年)

【スウェーデンの発明家、ダイナマイトを発明】

ノーベルの父は爆薬(ばくやく)を製造する仕事をしていたことから父の仕事を手伝っていたノーベルは、イタリアのソブレロが発見したニトログリセリンに興味をもって研究を続けました。ニトログリセリンは強力な破壊力(はかいりょく)をもっていたため、とりあつかいがむずかしくて事故が絶えず、ノーベルの工場も爆発(ばくはつ)して、兄弟をなくしました。
ノーベルは安全にニトログリセンをあつかう方法を模索(もさく)し、さまざまな実験を経て、ダイナマイトを発明しました。
ノーベルはダイナマイトの製造などで富を築き、彼の遺言により、彼の資産をもとにノーベル財団がつくられ、1901年から、毎年、”人類に大きな恩恵(おんけい)をあたえた人々”にノーベル賞がおくられているのです。

ジャン・ベルナード・レオン・フーコー

(1819年~1868年)

【フランスの物理学者】

1845年にはじめて太陽表面の詳細(しょうさい)な写真撮影(しゃしんさつえい)に成功しました。この撮影(さつえい)には長い時計じかけの特別な装置の振(ふ)り子を見ていて、装置が回転しているにもかかわらず、振り子が同じ振動面(しんどうめん)を保とうとしているのに気がつきました。これは地球の自転のせいではないだろうかと推論した彼は、1851年大がかりな実験に取り組み、パリのパンテオンの丸天井(まるてんじょう)からぶらさげた長い振(ふ)り子を用いて、地球が自転していることを人々に証明したのです。

グレゴール・メンデル

(1822年~1884年)

【オーストリアの植物学者】

メンデルは庭にエンドウを栽培(さいばい)して研究を行い、植物の遺伝についてある数学的な事実があることを発見しました。メンデルの発見は、ダーウィンの自然選択説(せんたくせつ)の弱点を補強するものでしたが、発見当時はほとんど人に知られることはなく、メンデルの遺伝の法則が注目を集めるようになったのは、それから30年以上もたったメンデルの死後の1900年に、ド=フリースがメンデルの論文を紹介(しょうかい)してからでした。

アーネスト・ソルベー

(1838年~1922年)

【ベルギーの化学者】

父が製塩工業を経営していたことから、おじのガス工場で働くうちに、ガス水からアンモニアを取り出し、製塩に利用する方法を研究し始めました。この方法は多くの先駆者(せんくしゃ)が取り組んでいましたが、失敗も多くあることを知り、その失敗例を学んで、ソルベー法(アンモニアソーダ法)と呼ばれる製造法を発明し、1861年に初めて工業的な方法の特許を取りました。ソルベー法(アンモニアソーダ法)は、食塩と石灰水を原料として炭酸ナトリウムを工業的に製造する方法で、アルカリ工業という分野で大きな業績を残しました。

アルバート・アインシュタイン

(1879年~1955年)

【ドイツ生まれの理論物理学者】

1905年、アインシュタインは、光は波長に特有な一定のエネルギーをもつ量子でできているという、プランクの量子論を適用した「光の量子説」によって金属に光を当てたときに放出される電子のエネルギーは光の強さには関係がないという現象を解明しました。これがもとになって、新しい量子力学が確立され、アインシュタインはその業績によって1921年のノーベル物理学賞を受賞しました。
『特殊(とくしゅ)相対性理論』は、宇宙にはエーテルのような絶対的に静止している物質があるという当時の宇宙観に対し、すべての運動は相対的なものであるとしたもので、ニュートン以来の理論体系を根本的にひっくり返すものでした。この理論によって、時間さえももはや絶対的なものではなくなり、時間と空間は融合(ゆうごう)したものとしてとらえられるようになったのです。さらに1915年には、相対性理論をより広く適用できるような、一般(いっぱん)相対性理論を発表しました。そこでのアインシュタインの予言は、その後の研究や観測の結果次々と証明され、彼の名声は世界的なものとなりました。

トーマス・エジソン

(1847年~1931年)

【アメリカの発明家】

自分の家に実験室をつくり、実験の材料を買うために働きました。1868年、電信技師となってボストンに住んだエジソンは、議会での投票を機械的に記録する装置をつくって、最初の特許をとりました。1876年、ニュージャージー州メロンパークに研究所をつくり、1,100もの発明を行いました。ここで、ベルが発明した電話機を実用化したり、蓄音機(ちくおんき)を発明しました。なかでも白熱電球の発明は有名です。1878年、エジソンは電球をつくることを宣言しましたが、電球づくりはなかなかうまくいかず、ようやく1879年10月、世界初の白熱電球が完成したのです。

ウォレス・カローザス

(1896年~1937年)

【アメリカの化学者】

1928年から化学会社デュボンの研究所で、化学の基礎(きそ)研究に従事。1930年、ジアミンとジカルボン酸を結合させ、絹に似た合成繊維(せんい)を発明しました。これが「ナイロン」で、カローザスの発明によって合成繊維(せんい)の時代が始まったといわれています。

キュリー夫妻

(夫)ピエール・キュリー(1859年~1906年)
(妻)マリー・キュリー(1867年~1934年)

【ともにフランスの物理学者・化学者】

1895年に結婚(けっこん)し、夫妻で放射性元素の研究を行うようになりました。そして、ラジウムが放射する熱量を計算して、原子の中には大きなエネルギーが内蔵されていることを発見しました。これらの研究によって1903年に夫婦揃(そろ)ってノーベル物理学賞を受賞しました。また1898年には、ウランの数百倍の放射能を持つポロニウム、もっと強力な放射能を持つラジウムを発見し、その功績により1911年にマリーがノーベル化学賞を受賞しました。

ジョン・ハイアット

(1837年~1920年)

【アメリカの発明家】

ニューヨークで工場経営を行うかたわら、水浄化器(みずじょうかき)やボールベアリングの発明を行いました。この中で最も有名なものは、1868年、弟のアイザック・ハイアットと共に発明したセルロイドの製法です。これは、ニューヨークの会社が玉突(たまつ)き(ビリヤード)用の象牙(ぞうげ)ボールの代用品を懸賞(けんしょう)付きで募集(ぼしゅう)したのに応募(おうぼ)しようとしたことから研究が始まりました。パークスによって発明されていたパーキシン(ニトロセルロースにしょうのうを加えた物質)をより堅(かた)くした材料を作り、これで固形物を製造することに成功、これに「セルロイド」という商品名を登録しました。これが世界で最初に作られたプラスチックです。

ヴラジミール・ズウォーリキン

(1889年~1982年)

【電子技術者・発明家】

ズウォーリキンは電子線の運動を利用して像を再現させるアイコノスコープ(撮像管(さつぞうかん))やキネスコープ(受像管)を考え出し、1923、24年に特許を取りました。アメリカラジオ社(RCA)でテレビジョンの開発を続け、実用テレビカメラ、アイコノスコープが完成しました。これはカメラのうちにセシウム銀粒子(りゅうし)を張り、光がこの面を走査すると銀粒子が明るさに比例して電子を放出し、これに制御(せいぎょ)されたテレビ管内の電子が蛍光板を走査することにより、カメラに写った像が再現されるというしくみでした。1957年にズウォーリキンは紫外線(しがいせん)とテレビジョンを用いた装置で特許をとりました。これによって、従来の光学顕微鏡(けんびきょう)よりもはるかに高い倍率の拡大が可能になり、ウィルスやたんぱく質の分子をスクリーンに映すこともできるようになり、生物学や化学の発展に大きく寄与(きよ)しました。

ゴットリープ・ダイムラー

(1834年~1900年)

【ドイツの技術者】

1872年から10年間、ドイツ・ガス機関製造工場に勤め、四サイクル内燃機関の開発で有名なオットーのもとで働きました。
この会社を退職したダイムラーは独自の考えでエンジンの設計に取り組み、1883年には従来のものよりも、軽量で出力の高い、高速度エンジンの製作に成功して、ボートの動力源としての利用を試みました。さらに、1885年には、第1号エンジンの改良型を自転車に取りつけ、世界で最初の自動二輪車を誕生させました。
1890年にダイムラー自動車株式会社を設立。メルセデス号を生産、1926年、ベンツ社と合併、ダイムラー・ベンツ社となりました。

チャールズ・ホール

(1863年~1914年)

【アメリカの化学者】

学生時代に、恩師ジューエット教授の影響(えいきょう)でアルミニウムの製法に関心をもちました。当時、アルミニウムの製造はコストが高かったため、それを解決するために様々な実験を行った結果、電解が最も実用的であると確信、1886年、電気分解によりアルミニウムを取り出す方法を発明しました。この方法によりアルミニウム工業は急速に発展しました。

ルドルフ・ディーゼル

(1858年~1913年)

【ドイツの発明家】

ドイツのミュンヘン理工科学校で、冷凍(れいとう)技術の確立者であるリンデから、熱機関の基礎(きそ)理論を学びました。
彼はエンジンの研究にとりつかれ、試作を続け、1897年にディーゼルエンジンを完成させました。これは、燃料と空気の混合気体を圧縮した時に、圧縮エネルギーが熱エネルギーに変化し、混合気体の温度が上がって点火する仕組みになっていました。ガソリン機関にくらべて、点火用の電気火花を必要とせず、燃料(灯油)も安くて可燃性が低いため安全でしたが、機関の本体重量が重かったため、船や機関車など重量があって大型の輸送機関で利用されるようになりました。1930年代になって小型に改良したディーゼルエンジンが開発され、自動車にも利用されるようになりました。

ジョセフ・ジョン・トムソン

(1856年~1940年)

【イギリスの物理学者】

19世紀の終わりごろ、陰極(いんきょく)線は磁界中でその進路が曲がることから、負の荷電粒子の流れではないかと考えられてました。もしそうであるならば、陰極線は電界によっても曲げられるはずでしたが、それを実証した人はいませんでした。トムソンはこの研究に取り組み、1897年、高度な真空管を用いて陰極線が電界で曲げられることを実証し、陰極線が荷電粒子(かでんりゅうし)からなることを証明、そして陰極線粒子の電荷を測定し、この粒子が今まで知られていたどの原子よりも、ずっと小さい質量であることを明らかにしました。この粒子(りゅうし)が後に”電子”とよばれるようになったのです。この電子の発見により、1906年ノーベル物理学賞を受賞しました。

ジョン・アンブローズ・フレミング

(1849年~1945年)

【イギリスの電気技師】

1881年に、磁場の中で電流が受ける力の向き及び磁場の中を運動する導体に生ずる誘導起電力の向きに関する法則(フレミングの法則)を発見しました。
また、エジソン効果(エジソンが、1883年に電球中のフィラメントの近くに金属線を封入したところ、電流が真空管を通ってフィラメントと金属線の間に流れる事を発見した。)に興味を持ち続け、1904年、二極管(フレミング管)を発明しました。これは二つの電極をもつ真空管で、フィラメントを熱すると陰極(いんきょく)から電子が放出され、一方の極、陽極は低温にして電子の放出が起こらないようにすると、電流は一方向にしか流れません。この装置は無線受信機の整流器や検波器として使われましたが、今では半導体ダイオードにとって代わられました。

アレキサンダー・グラハム・ベル

(1847年~1922年)

【アメリカの発明家】

祖父と父が聾唖(ろうあ)者に発声法を教える研究をしていたため、ベルも発声法を学び、機械的な発声法に興味をもつようになりました。
ベルは音波振動(しんどう)を電流に変えて、回路の他の端(はし)で再生するという研究を始め、1875年、これを完成し、1876年、この電話機の特許をとりました。フィラデルフィアで開かれた独立百年祭に出品された電話機は、大変な評判となり、ベルがつくったベル電話会社は大会社に成長しました。1933年に科学雑誌として有名な「サイエンス」を創刊しました。

ヘンリー・フォード

(1863年~1947年)

【アメリカの自動車工業の創立者】

ベルトコンベアーを利用して、自動車の大量生産の発明に成功した自動車王フォードは、幼い頃から機械いじりが大好きで、自分で工夫したドライバーを使って、ヒマさえあれば時計を分解しては組み立てていたメカ少年でした。故障した時計の修理を頼(たの)まれれば喜んで修理を引き受け、いたずら好きな友達がわざと中身の部品を抜きだして修理を頼んでも、自分で部品を作って、次の日にはちゃんと動くようにしてしまうほどでした。
まだ彼が13歳だったときに、アメリカでは初めて地域ごとの時差が導入され、古くからの全国一律時間と新しい地域時間の使用で、混乱が生じていました。そこで彼は、腕時計の中に、黒と赤に色分けした2組の長身と短針をはめこみ、どちらの時間も一目瞭然(いちもくりょうぜん)にわかる、便利な時差時計を発明しました。この自家製時計を見せられた近所の少女クララは、「ヘンリーって何てかしこいの!」と感心し、これが縁(えん)で、2人は後に結婚(けっこん)することになりました。

グリュルモ・マルコーニ

(1874年~1937年)

【イタリアの電気技術者】

ドイツの物理学者ヘルツによって発見されていた電波を通信に使うことを思いつきました。そして電波を検出するための検波器を改良し、送信と受信の両方に使えるようにしました。1896年に自分の家から庭までのわずかな間で、電波による通信が成功、1898年にイギリスで29キロメートルの送信に成功、1901年、イギリスから大西洋をこえてニューファンドランド島までの通信に成功しました。1909年にノーベル物理学賞を受賞しました。

ルイ・リュミエール

(1864年~1948年)

【シネマトグラフを発明したフランス人】

兄のオーギュスト・リュミエールともに、現在の映画と同じ原理を持つシネマトグラフを発明しました。これはエジソンが発明した一人用キネトスコープと異なり、大勢の人が同時にスクリーンを見ることができる画期的なものでした。この発明により映画が世界中に広まっていくことになりました。

ウィルヘルム・レントゲン

(1845年~1923年)

【ドイツの物理学者】

1895年、偶然(ぐうぜん)に透過力(とうかりょく)が強く肉眼では見えない放射線を発見し、これをX線と名づけ、その基本的な性質をすべて明らかにしました。X線を医学に利用することによって、人間の身体を外部から調べることが可能となったほか、放射能の研究など、物理学の進歩に大きな影響(えいきょう)をあたえました。1901年、第1回ノーベル物理学賞を受賞しました。

ロバート・ゴダード

(1882年~1945年)

【アメリカのロケット工学者】

ロケットの歴史は古く、1232年に中国で使われています。火薬がヨーロッパへ伝わり、天文学の発達とともに宇宙を飛ぶ装置、すなわちロケットが空想されるようになりました。ゴダードは開発体制の未発達な時代にあって個人的にロケットの研究を行い、1926年、マサチューセッツのオーバンで初めて液体燃料を使ってロケットを発射させ、成功したのです。

ロバート・ワトソン・ワット

(1892年~1973年)

【イギリスの物理学者】

当時電波は反射することが知られていたが、ワトソン=ワットはこの反射現象に関心をもち研究をするようになりました。1919年に、短波ラジオを使った電波探知に関して特許を取り、1935年、この装置を改良し、電波によって飛行機を追跡(ついせき)できるようにし、これをレーダーと名づけて特許を取りました。レーダーの原理は、波長の短い電波を送り出して目標物に当て、反射して発信元にもどる時間を測定して目標物までの距離(きょり)を計算するものでした。

御木本幸吉

(みきもとこうきち)(1858年~1954年)

【ミキモト創業者】

御木本幸吉は、安政5年(1858)志摩(しま)国(現在の三重県)に生まれました。進取の気象に満ちた彼は、一業を立てたいと志(こころざ)し明治11年に上京しました。この時、横浜で真珠(しんじゅ)の売買を見学したことが、彼と真珠とのかかわりの最初でした。彼は、真珠貝を採るため、明治21年に英虞湾(あごわん)でその養殖(ようしょく)を始め、明治23年には上野で開催(かいさい)された第3回内国勧業(かんぎょう)博覧会に真珠、アコヤ貝、真珠入り物品等を出展しました。彼はこのころ、真珠そのものの養殖をしたいと考えており、この博覧会において、出展物の審査官(しんさかん)であった箕作佳吉東京帝国大学教授から真珠は人工養殖できるかもしれないと言われたことが、彼のその後の進路を決定的なものとしました。同年、彼は真珠養殖の研究に取り掛(か)かり、4年間の研究の末、明治26年、養殖したアコヤ貝の穀の内面にコブのような半円形の養殖真珠を造り出すことに成功し、最初の特許権を得ました(特許第2670号、明治29年)。この半円形養殖真珠は、通常いわれている真珠とやや趣(おもむ)きが異なるものの、装身装飾(そうしんそうしょく)の具として世の中に広く受け入れられました。その後も彼は、円形真珠を人工養殖で造るための研究を続け、明治41年に真珠素質被着(ひちゃく)法の特許権を得ました。この発明をきっかけとして日本の真珠養殖業は飛躍(ひやく)をとげ、一つの産業として成長したのです。このほかにも彼は、真珠稚貝(しんじゅちがい)の養殖に関する発明等によって多数の特許権を取得し、昭和29年勲一等瑞宝章(くんいっとうずいほうしょう)を受けました。昭和29年(1954)没。

高橋是清

(たかはしこれきよ)(1854年~1936年)

【初代専売特許所長(特許庁長官のようなもの)】

安政(あんせい)元(1854)年に生まれ、仙台藩(はん)の高橋家に養子に出された高橋是清は、14歳(さい)のときに留学先のアメリカで身売りされ、帰国後は大学南校(のちの東大)の教官を務めるなど、波瀾万丈(はらんばんじょう)な経験の持ち主でした。
あるとき是清は、著作権について外国人から相談を受けました。そして、不平等条約によって治外法権(ちがいほうけん)が認められている外国人には、日本の知的財産権が認められないことを知り、不平等条約の解消に役立てようと、特許や商標について詳(くわ)しく勉強しました。
これがきっかけとなって、明治14年に文部省から農商務省調査課に移り、専売特許条例の制定作業に主任として活躍(かつやく)した是清は、明治17年と18年に設置された商標登録所と専売特許所の初代所長に就任し、後の明治20年に初代の特許局長になりました。
その後、南米に渡るなどの放蕩(ほうとう)を続けながら、明治39年に正金銀行総裁に、明治44年に日本銀行総裁に、大正10年に総理大臣兼(けん)大蔵大臣に就任しました。そして、昭和9年にはふたたび岡田内閣の大蔵大臣になり、在任中の昭和11(1936)年に2・26事件で凶弾(きょうだん)に倒(たお)れ、亡くなりました。

高峰譲吉

(たかみねじょうきち)(1854年~1922年)

【明治・大正時代の応用化学者】

高峰譲吉は、安政元年(1854)越中(えっちゅう)国(現在の富山県)に生まれました。明治12年、工部大学(現在の東京大学工学部)応用化学科を卒業し、翌年イギリスに留学、帰国後、明治16年、農商務省に入りました。特許制度に関心のあった彼は、アメリカ出張の際にワシントンに立ち寄り、特許制度を調査したところ、これが後に高橋是清専売特許局長に認められ、明治19年、専売特許局次長に任命されたのです。一方、彼は農商務省に在職中、醸造(じょうぞう)、和紙、製藍(せいらん)等の研究も幅広(はばひろ)く行っており、明治21年に農商務省を退職した後は研究等に没頭(ぼっとう)しました。明治23年には、元麹(もとこうじ)とこれを使った醸造法(じょうぞうほう)の改良に成功し、特許権を得ました。この醸造法が、アメリカのアルコール製造会社に採用されたことをきっかけに渡米(とべい)し、同地で消化剤(しょうかざい)であるタカジアスターゼの製造方法を発明し、多数の特許権を得ました。当時、副賢皮質(ふくじんひしつ)ホルモンであるアドレナリンの作用効果についての研究が世界各地で行われ、その効用については明らかになりつつありましたが、これを臨床的(りんしょうてき)に使用するためには純粋(じゅんすい)な形での分離(ぶんり)が必要でした。彼は、アメリカの製薬会社からこのアドレナリン抽出(ちゅうしゅつ)の依頼(いらい)を受け空気圧を減圧することによって溶液(ようえき)の温度を上げずに溶媒(ようばい)を除去することを考え出すなど、いくつかの独創的な方法で結晶分離(けっしょうぶんり)による純粋なアドレナリンの製法を発明し、特許権を得ました(特許第4785号、明治34年)。この発明は、ホルモンの最初の結晶化であり、医療上(いりょうじょう)なくてはならない常用医薬の製造に寄与(きよ)する業績として高く評価されています。大正11年勲三等瑞宝章(くんさんとうずいほうしょう)を受けました。大正11年(1922)没。

三島徳七

(みしまとくしち)(1893年~1975年)

【金属工学者(きんぞくこうがくしゃ)】

三島徳七は、明治26年(1893)兵庫県に生まれました。東京帝国大学工学部鉄冶金学科に進み、大正9年、卒業しました。卒業後は研究室に残り冶金学の研究に専念しましたが、磁石鋼の磁石の理論的解明を進めている際、無磁性のニッケル鋼にアルミニウムを添加(てんか)すると磁性を回復することを発見しました。この研究を進め、ついに残留磁気(ざんりゅうじき)及び抗磁力(こうじりょく)が高く、従来の焼入れ型と違って析出硬化型(せきしゅつこうかがた)のため安定度が優れ、磁性の温度変化及び経年変化が小さいMK磁石鋼を発明し、特許権を得ました(特許第96371号、昭和7年)。この磁石鋼は永久磁石史上革命的なもので、現在広く用いられているアルニコ磁石の基本となったのです。MK磁石鋼は、それまでの磁石に比べはるかに廉価(れんか)であり、発電機、通信機、ラジオ等のスピーカーなど民生機器及び産業機器用等の磁石として広く使われるなど、その後の技術進歩に大きく貢献しました。なお、MK磁石鋼の名は、彼の養家である三島家と生家である喜住家の頭文字を採って命名されたものです。昭和13年には、東京帝国大学教授となりました。昭和25年藍綬褒章(らんじゅほうしょう)、文化勲章(ぶんかくんしょう)、昭和50年勲一等旭日大綬章(くんいっとうきょくじゅつだいほうしょう)を受けました。昭和50年(1975)没

杉本京太

(すぎもときょうた)(1882年~1972年)

【発明家】

杉本京太は、明治15年(1882)岡山県に生まれました。通信技術者を志し、大阪(おおさか)市電信技術者養成所に入り、明治33年同養成所を修了(しゅうりょう)しました。当時、欧米(おうべい)諸国においてはすでにタイプライターが出現しており、ペンによる手書はあまり用いないようになっていましたが、我が国では実用的な邦文(ほうぶん)タイプライターの開発はされていませんでした。もし、これが開発されれば、欧米文字に比べて複雑で難しい漢字を使う我が国では、一層の恩恵(おんけい)を受けることとなるので、その出現が待ち望まれていました。彼は、同養成所を修了後(しゅりょうご)、活版技術関係の仕事に従事し、続いて邦文タイプライターの研究に着手しました。当時の邦文タイプライターは、円筒(えんとう)表面あるいは孤形面(こけいめん)に活字を並べたもので活字数も少なかったのです。彼は、左右に移動する活字庫、前後に移動する印字部(いんじぶ)及び円筒型の紙片保持具によって構成する独創的な機構をもつ邦文タイプライターを発明し、特許権を得ました(特許第27877号、大正4年)。この発明は、現在の邦文タイプライターの基礎(きそ)となる画期的なもので、邦文による書類作成事務の能率化に大きく貢献(こうけん)をしました。昭和28年には藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を、さらに昭和40年には勲四等旭日小綬章(くんよんとうきょくじつしょうじゅしょう)を受けました。昭和47年(1972)没。

前田正名

(まえだまさな)(1850年~1921年)

【明治の官僚】

明治維新(いしん)後の混乱によって、明治初期の商工業のモラルは著(いちじる)しく退廃(たいはい)しました。粗悪品(そあくひん)や模倣品(もほうひん)が市場にあふれ、織物、漆器(しっき)、陶器(とうき)などの重要輸出品の価格も低落しました。この状況を憂(うれ)いた、農商務大書記官兼大蔵大書記官の前田正名(まえだまさな)は、明治17(1884)年に『興業意見』を作成し、健全な産業の育成のためのさまざまな提案をおこないました。この意見書で彼は、模倣品を取り締まるために、特許制度を創設することが日本の産業の発展に必要であることを訴(うった)えました。
明治16年、正名は、森有礼(もりありのり)の紹介(しょうかい)で、同じ農商務省で働いていた工務局調査課の高橋是清と知り合いました。その後2人は、頻繁(ひんぱん)に日本の産業の発展の将来について語り合いました。このとき、高橋是清は、工業所有権制度の「根本」というものについて考えさせられたのでした。

丹羽保次郎

(にわやすじろう)(1893年~1975年)

【発明家】

丹羽保次郎は、明治26年(1893)三重県に生まれました。大正5年、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業し、逓信省電気試験所に入りました。電気試験所における彼の活躍(かつやく)は民間の有力者の認めるところとなり、彼は逓信省(ていしんしょう)を辞め民間会社に入社しました。当時我が国の電気技術は、欧米(おうべい)からの技術導入が中心でした。彼は、我が国独自の研究開発の必要性を感じて、大正13年欧米の実状を視察し帰国後、写真電送の研究に取り組み、有線写真電送装置を発明し、特許権を得ました(特許第84722号、昭和4年)。この写真電送装置は取扱(とりあつか)いが簡単であるばかりでなく、完全に写真が再生できるもので、我が国初の写真電送装置として、昭和天皇の即位式(そくいしき)のニュース写真の電送に用いられ、優れた成績を上げました。この成功は、その独創性や実用性において我が国の電気通信界に大きな刺激(しげき)を与えました。彼は、有線写真電送を完成させるとすぐに無線写真電送の研究に着手し、昭和4年、東京-伊東間で我が国初の長距離(ちょうきょり)無線写真電送の実験に成功しました。昭和24年、東京電機大学学長に就任、昭和34年文化勲章(ぶんかくんしょう)、昭和46年には勲一等瑞宝章(くんいっとうずいほうしょう)を受けました。昭和50年(1975)没。

池田菊苗

(いけだきくなえ)(1864年~1936年)

【明治・大正時代の化学者】

池田菊苗は、元治元年(1864)京都に生まれ、明治22年東京帝国大学理科大学化学科を卒業し、明治32年から2年間、ドイツに留学しました。帰国後、明治34年に東京帝国大学教授に就任しました。彼は、専門の物理化学の研究を行うとともに日本人の生活の改善と社会の進歩に直結するような応用研究に関心を持ち様々な研究を行いましたが、この中に昆布(こんぶ)のうまみの研究がありました。彼は、昆布のうまみの成分を解明すれば調味料として工業的に生産できるのではないかと考え、研究を続けた結果うまみの成分がグルタミン酸ナトリウムであることをつきとめ、これを主要成分とする調味料の製造方法を発明し、特許権を得ました(特許第14805号、明治41年)。グルタミン酸ナトリウムは、彼の働きかけによって商品化され、調味料として広く売り出されました。このグルタミン酸ナトリウムは、品質が安定しており食物に独特のうまみを与えるため、食品添加物(しょくひんてんかぶつ)として広く普及(ふきゅう)し日本人の食生活を豊かにしました。また、海外にも調味料として広く受け入れられました。彼は、大正12年に東京帝国大学を退官した後もグルタミン酸ナトリウム製造技術の完成に熱意を注ぎ、主として甜菜糖の廃液(はいえき)を原料としたグルタミン酸ナトリウムの製造法の研究に従事しました。昭和11年(1936)没。

八木秀次

(やぎひでつぐ)(1886年~1976年)

【無線学が研究テーマ、「電波指向方式」の発明】

八木秀次は、明治19年(1886)大阪府に生まれました。明治42年、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業し、その後、大正2年からイギリス、アメリカ、ドイツに留学し、ドイツでは無線通信用の連続した電波の発生の研究を行い、大正5年に帰国しました。この留学生活で無線学が彼の生涯(しょうがい)の研究テーマになりました。大正8年には東北帝国大学工学部設立とともに教授となり、同年、工学博士の学位を得ました。彼は、将来短波あるいは超短波(ちょうたんぱ)による通信が主力となることを予見し、その研究と指導に意を注ぎ、大正14年、「短波長電波の発生」、「短波長による固有波長の測定」等の論文を発表しました。これらの発表された理論に基づき、いわゆる八木アンテナの基本となる「電波指向方式」を発明し、特許権を得ました(特許第69115号、大正15年)。この発明は、極めて簡単な構成で電波の指向性通信を可能にしたもので、今日の超短波、極超短波(きょくちょうたんぱ)で使用されているほとんどすべてのアンテナ系はこの方式によって構成されています。昭和17年、東京工業大学学長に、昭和19年には技術院総裁に就任、昭和21年大阪帝国大学総長となりました。昭和26年藍綬褒章(らんじゅほうしょう)、昭和31年文化勲章(ぶんかくんしょう)、昭和51年勲一等旭日大綬章(くんいっとうきょくじつだいじゅしょう)を受けました。昭和51年(1976)没。

豊田佐吉

(とよださきち)(1867年~1930年)

【発明家】

豊田佐吉は、慶応(けいおう)3年(1867)遠江(とうとみ)国(現在の静岡県)に生まれました。彼が18歳のとき、専売特許条例が公布されました。以前から国家のことを思い国家につくそうと考えていた彼は、この話を聞き「発明を生涯(しょうがい)の仕事としよう」と決心し、織機等の改良に取り組み始めました。明治23年、東京上野で開催された第3回内国勧業(かんぎょう)博覧会に出展された機械のほとんどが外国製であったのをみて、ますます国産機械の研究開発への意欲を高めたのです。彼は当時広く使われていたバッタン織機の生産性と製品の品質の大幅(おおはば)な向上を計った木製人力織機を完成し、最初の特許権を得ました(特許第1195号、明治24年)。明治27年には、取扱いが簡単で能率のよい糸繰返機(かせくりき)を発明し、その商業的成功を背景に、彼は動力で織る織機の開発を進め、2年後、木製動力織機を完成し、翌年、特許権を得ました。我が国初の動力で織る機械の誕生でした。その後も織機に関する開発を続け、明治36年に緯糸(よこいと)を自動的に補充(ほじゅう)する画期的な自動杼換装置を完成しました。これが自動織機の最初の発明でした。その後も、自動織機の改良を続け、彼が得た特許権は84件、実用新案権は35件にも達しました。明治45年藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を、昭和2年には勲三等瑞宝章(くんさんとうずいほうしょう)を受けました。昭和5年(1930)没。

北里柴三郎

(きたさとしばさぶろう)(1852年~1931年)

【細菌学者】

32歳のとき、ドイツに留学。細菌学(さいきんがく)の最先端(さいせんたん)をいくコッホの研究所に入りました。
1889年に破傷風菌(はしょうふうきん)の純粋培養(じゅんすいばいよう)に成功、翌年、破傷風菌の毒素を取り出すことにも成功して、病気の症状(しょうじょう)を起こすのは菌(きん)そのものでなく、菌がつくり出す毒素であることを証明しました。さらに、研究仲間のベーリングと共同で、免疫(めんえき)のある血清を病気の予防や治療(ちりょう)に使う「血清療法(けっせいりょうほう)」を考え出しました。
日本に帰国した柴三郎は、伝染病研究所を設置、ここでペスト菌の発見や多くの業績を残すと同時に、志賀潔などすぐれた科学者を育て、1915年には、自力で北里研究所を建て、伝染病退治にその生涯(しょうがい)を費やしたのです。

本多光太郎

(ほんだこうたろう)(1870年~1954年)

【物理学者】

本多光太郎は、明治3年(1870)愛知県に生まれました。明治27年、東京帝国大学理科大学物理学科に入学、物理学者長岡半太郎教授から磁気実験の指導を受けたことが鉄鋼学者を志す動機となりました。明治30年、同大学を卒業し、大学院で研究生活に入り理学博士の学位を得ました。明治40年、ドイツに留学し、帰国後、東北帝国大学理科大学の開設とともに教授となりました。第一次世界大戦が勃発すると磁石鋼の輪入が途絶(とぜつ)したため、我が国はこれを自給する必要に迫(せま)られました。彼は強力な磁石鋼の開発に取り組み、従来のタングステン鋼と比べて抗磁力(こうじりょく)が3倍と非常に強く焼入硬化型(やきいれこうかがた)の永久磁石鋼としては最強の抗磁力を有するKS鋼を発明し、特許権を得ました(特許第32234号、大正7年)。KSの名はこの磁石が住友吉左衛門の寄付によって完成されたためその頭文字を採ったものです。さらに、昭和8年、当初のKS鋼の数倍の抗磁力をもつ世界一強力な永久磁石合金である新KS鋼(NKS鋼)を発明し、特許権を得ました。昭和6年、東北帝国大学総長に就任し、9年間務めた後、東京理科大学学長も務めました。昭和12年に文化勲章(ぶんかくんしょう)、昭和29年には勲一等旭日大綬章(くんいっとうきょくじつだいじゅしょう)を受けました。昭和29年(1954)没。

鈴木梅太郎

(すずきうめたろう)(1874年~1943年)

【農芸化学者】

ヨーロッパに留学し、ベルリン大学では有機化学者フィッシャーの指導を受け、たんぱく質を合成する研究に取り組みました。帰国後は、米のたんぱく質の研究を進め、この研究過程で、米ヌカの中から「オリザニン(ビタミンB1)」を取り出すことに成功。この成分が脚気(かっけ)に効くことを、1910年の学会で発表しました。当時、脚気は毎年2~3万もの人の命をうばう恐(おそ)ろしい病気でしたが、梅太郎の「オリザニン」によって克服されたのです。
その後、ビタミン学の発展につくすとともに、合成酒の発明や完全栄養食の研究など生活に役立つ業績をたくさん残しました。

ジェームス・ワトソン

(1928年~)

【アメリカの分子生物学者】

シカゴ大学の動物学科卒業後、微生物(びせいぶつ)の遺伝について研究を続けていました。1951年イギリスの物理学者ウィルキンズ・クリック(1916-)に会い、遺伝子の正体であるDNA(デオキシリボ核酸(かくさん))のX線写真を見たことからこれに興味を持ち、クリックと共に研究をし、DNAの構造を明らかにした二重螺旋(にじゅうらせん)模型を発表しました。これは「ワトソン=クリック模型」と呼ばれています。この研究成果が認められて、1962年クリックと共にノーベル生理学医学賞を受賞しました。

サイモン・クズネッツ

(1901年~1985年)

【アメリカの経済学者】

ハーバード大学教授、全国経済調査局の主要メンバーとして活躍(かつやく)しました。彼は全国経済調査局時代から経済学の研究にあたって経験的事実を尊重し、GNP(国民総生産)の計算方法を考えだすなど、国民所得の実証的研究で功績をあげました。
1971年、ノーベル経済学賞を受賞しました。

ウィリアム・ショックレー

(1910年~1989年)

【アメリカの物理学者】

ベル研究所の同僚(どうりょう)ブラテン、バーディーンとともに、不純物をわずかにふくむゲルマニウムが電流の整流作用や増幅(ぞうふく)作用を行うことを発見し、これを使った装置トランジスタを発明しました。トランジスタの発明により、電気製品は小型化が進みコンピュータや人工衛星の開発が容易になったのです。1956年、トランジスタ発明の功績により、他の二人とともにノーベル物理学賞を受賞しました。

ジョン・ノイマン

(1903年~1957年)

【アメリカの数学者】

ノイマンは高等数学の領域で多くの業績をあげていますが、特に「ゲームの理論」という新しい数学は、一般(いっぱん)社会にも当てはめることができるものとして、大きな注目を集めました。
第二次世界大戦中から高速度計算機の開発にたずさわり、ノイマンが提案したプログラム記憶(きおく)方式は、今日まで電子計算機の基本原理となりました。
そして計算の種類を変えられる計算速度の速い計算機を発明しました。

ヴェルナー・フォン・ブラウン

(1912年~1977年)

【ドイツの技術者】

子供のころからロケットに関心を持っていたブラウンは、1930年にロケット狂(きょう)の仲間とともにロケット実験を開始しました。彼らのロケット計画はドイツ陸軍に採用され、ロケット研究センターが設立され、ブラウンはここで研究を進め、1936年には射程距離(しゃていきょり)176キロメートルのロケットを完成したのです。やがて第二次世界大戦が始まると、彼の指導のもとでミサイルが開発され、1944年にV2号と命名されたミサイルがはじめて戦場で発射されました。
戦争終結後、米国に移ったブラウンは、さらにロケットの研究を続け、アメリカで最初の人工衛星エクスプローラ1号が打ち上げられたのです。

井深大(いぶかまさる)

(1908年~1997年)

【株式会社ソニー創業者】

ソニーの創業者である井深大(いぶかまさる)は、早稲田大学理工学部在学中に、まるで光が動いているように見える「走るネオン」を発明し、パリの万国博覧会で優秀賞(ゆうしゅうしょう)を受賞するほどの天才学生発明家でした。 彼は、学生時代から特許出願を試みるほど発明に意欲を持ち、特許庁の審査官(しんさかん)にいろいろ学びながら、特許公報を調査・検討して技術の動向を把握(はあく)することを学びました。
その後、昭和21年5月、井深さんは「技術をもって社会の発展、文化の向上に貫献(こうけん)する」ことを設立趣意書(せつりつしゅいしょ)に記して、会社を創立しました。そして小さな町工場から、今日の「世界のSONY」を築き上げたのです。

江崎玲於奈

(えさきれおな)(1925年~)

【実験物理学者】

大阪(おおさか)生まれ。少年時代から理科や数学が得意で、ガリレイやエジソンのような科学者になることが夢でした。企業(きぎょう)の研究所でコンピュータの命である半導体の研究に取り組み、1957年に、電圧と電流の間に「トンネル効果」という独特な現象があることを発見しました。「トンネル効果」とは、電子がエネルギーの壁(かべ)をすりぬけてしまう現象で、これを半導体で解明し、理論づけをしたのが大きな功績でした。彼はこの理論を基に、半導体を使った重要な電子部品であるダイオードを改良し、「トンネル・ダイオード」を発明しましたが、この発明は日本より海外で高い評価を受け、1960年にアメリカのIBM社にまねかれ、特別研究員となりました。この時は頭脳流出とさわがれました。
玲於奈の半導体研究は、トンネル分光学という新分野の学問を生み、「超伝導(ちょうでんどう)物質」を誕生させる基となり、1973年に、ノーベル物理学賞を受賞しました。

湯川秀樹

(ゆかわひでき)(1907年~1981年)

【理論物理学者】

小さいときからものごとを徹底的(てっていてき)に追求する性格で、高校に入ってから物理学に夢中になり、大学で物理学を学び、卒業後、量子力学の研究に取り組みました。量子力学は物理学の新分野で、原子や電子など微視的(びしてき)な物体の運動を解明しようとするものでした。当時、宇宙線粒子(うちゅうせんりゅうし)の中には電子のほかに中性子と陽子が存在することが確認されていて、この中性子と陽子がくっついて原子核(げんしかく)ができていると考えられていましたが、秀樹はこの考えをさらに進めて、中性子と陽子をくっつける力(核力)の仲立ちをする別の粒子(りゅうし)があるはずだと推定し、1934年にその粒子(中間子)の存在を理論的に証明することに成功しました。秀樹の説は3年後、アメリカのアンダーソンの実験で確認され、この中間子は湯川粒子と命名されたのです。
1949年、日本人としてはじめてノーベル物理学賞を受賞しました。

福井謙一

(ふくいけんいち)(1918年~1998)

【化学者】

父の知人の化学者にすすめられたことや、尊敬するファーブルが化学者としてもすぐれた人物であったことに影響(えいきょう)され、化学の道を選んだ謙一は得意な数学で化学反応を解き明かしたいと考えるようになり、そのために、量子力学の研究に取り組みました。量子力学は、原子や分子の中にある電子のエネルギーを数式で表そうとする新しい物理学の分野で、化学反応の研究を続け、量子力学の理論を応用して、電子の軌道(きどう)から化学反応を解明することに成功。1952年に「フロンティア軌道理論」を発表しました。この理論は、すべての化学反応にあてはまる原理であり、世界の化学史上、画期的な発見として認められました。
1981年、日本人としてはじめてのノーベル化学賞を受賞しました。

ガリレオ・ガリレイ

(1564年~1642年)

【イタリアの天文学者・物理学者】

物理学や天文学の分野で多くの発見や発明をしたガリレオ・ガリレイは、「近代科学の父」といわれています。彼は温度計、望遠鏡、偽(にせ)金発見器など、多くの機器を開発し、1594年にはベニス共和国で「らせん回転式ポンプ」の特許を取得しました。

ジェームス・ワット

(1736年~1819年)

【イギリスの発明家】

~ワットの蒸気機関~
1765年のある日曜日、散歩をしていたジェームス・ワットは、新しい蒸気機関のアイデアを思いつき、さっそくアイデアを実現するための実験を開始しました。しかし、実験に必要な資金がかさんでしまい、彼は貴重な歳月(さいげつ)を資金稼(かせ)ぎに費やし、なかなか発明を完成させることができませんでした。
それから10年、苦労の末、ようやく発明の完成にこぎつけたワットは、特許を申請(しんせい)し、1775年から25年間の保護を与えられました。
特許によって豊かになった彼は、その後、研究に専念することができるようになりました。
そして、蒸気機関の性能を向上させるさまざまな発明や、ピストンの往復運動を回転運動に変換(へんかん)する発明などを、次々に完成させていったのです。

ハンフリー・デーヴィー

(778年-1829年)

【イギリスの科学者】

<デーヴィーの安全ランプ>
産業革命時代のイギリスでは、炭坑内(たんこうない)で発生するガスにランプの火が引火して爆発(ばくはつ)事故が起こることがよくありました。当時、最高の科学者として有名だったデーヴィーにこの問題の解決が依頼(いらい)され、彼は1815年に安全ランプを発明しました。ところがデーヴィーは、「人命を救うための発明だから」という配慮(はいりょ)から、この発明についてあえて特許を取得しませんでした。このため、性能に問題のある粗悪品(そあくひん)が出回り、逆に爆発事故の犠牲者(ぎせいしゃ)が増えてしまったのです。
特許があれば、尊い人命を奪(うば)う粗悪品の製造を差し止めることができたでしょう。この悲劇は皮肉にも、人々の安全や健康を確保するためには、特許を活用した品質の維持(いじ)が必要であることを、後世の人々に教えてくれたのです。

臥雲辰致

(がうんたつむね)(1842年-1900年)

【ガラ紡績機の発明者】

臥雲辰致(がうんたつむね)は、臥雲山孤峰寺の住職でしたが、明治の一時期、仏教が軽視されたため、30歳で僧侶をやめました。そして、外国から多量の綿製品が輸入されるのを見て、外来品に負けない糸を作ろうと発明に意欲を燃やし、明治6(1873)年、ガラ紡績機(ぼうせきき)の第1号機を完成させたのです。その後、明治8年には政府からの許可を得て発売をはじめ、次々と改良を加えていきました。彼の発明は人々の注目を集めていき、明治10年に開催(かいさい)された「第1回内国勧業博覧会」にも出品して、「本会第一の好発明」と激賞され、最高の栄誉である鳳紋褒賞牌(ほうもんほうしょうはい)を授与(じゅよ)されました。
こうしてガラ紡績機はどんどん有名になり、全国各地に普及(ふきゅう)していきました。ところが、当時の日本には特許制度がなかったため、構造が簡単なガラ紡績機を模倣(もほう)する人が後を絶ちませんでした。発明の開発に資金を投じていた辰致は、明日の米を買うお金もないほど生活に行き詰まってしまいました。それでも彼は「自分はこの発明とともに死ぬ決心だ。他のことなどにかまっておれぬ」といって改善工夫をやめませんでした。
やがて、明治18年に専売特許条例ができ、辰致も改良されたガラ紡績機の特許を得ました。しかし、すでにガラ紡績機は全国に出回っていたので、あまり利益を得ることはできませんでした。ガラ紡績機では利益を得られなかった彼ですが、晩年には七桁(けた)計算機や土地測量機などの発明をして人気になり、特許によって豊かに暮らすことができました。

ライト兄弟

(兄)ウィルバー・ライト 1867年~1912年
(弟)オーヴィル・ライト 1871年~1948年

【アメリカの発明家】

自転車会社を経営していた兄弟が、ガソリン機関つきの飛行機を作り上げました。

アレキサンダー・フレミング

(1881年~1955年)

【スコットランド生まれの細菌学者】

青かびが生えると菌が殖(ふ)えないことに気づき、ペニシリンを発見しました。1945年ノーベル医学生理学賞を受賞しました。

安藤百福

(あんどうももふく)

【日清食品会長】

戦後の食糧難(しょくりょうなん)の中、人々の食を満たすことを夢見た日清食品の安藤百福(ももふく)会長は、「ドンブリと著さえあればどこでも食べられるラーメン」という発想から、自宅の裏庭で研究開発を進め、世界初の即席麺「チキンラーメン」の発明を完成しました。1958年に発売が開始されたチキンラーメンは、「お湯をかければできあがる魔法(まほう)のラーメン」と、たちまち大ヒット商品になりました。 ところが、チキンラーメンにそっくりの粗悪(そあく)な模造品が続出し、即席麺のイメージを守るためにも、特許や商標の権利化が待ち望まれました。やがて、1962年に製法特許が認められ、日清食品以外には誰(だれ)も味付け即席麺を作ることができなくなりました。しかし、特許を独占(どくせん)したのでは、即席麺の発明が世の中に広まりません。即席麺全体の発展のためには、多くの企業(きぎょう)を参入させて市場を拡大することが大切です。特許も永久に保護されるものでもありません。そこで、技術契約(けいやく)のうえで特許を公開し、他の会社と競争しながら、さらに画期的な新製品の開発に取り組みました。こうして日清食品は、次の「カップラーメン」という新製品のアイデアを、ドンブリも箸(はし)もないアメリカで着想するに至ったのです。