(株)渡辺組[遠軽町] 代表取締役社長 渡辺 勇喜 氏

地域の課題解決に〝1人称〟で臨み、
オホーツクで最も必要とされる企業に。

株式会社渡辺組 代表取締役社長 渡辺 勇喜さん

成り立ちはすべて、課題解決。
先義後利の精神を「令和版」で推進中。

 渡辺組が珍しいのは、40年も前から、建設業でありながら多角化していることです。僕が生まれる前年に、まず祖父がホテル事業に乗り出しました。

 当時は景気が良く、婚礼や宴会がたくさんありましたが、町に大規模なホテルや宴会場がありませんでした。町や住民の切望する声を聞き、それを受けて祖父が創業しました。ホテル経営が目的ではなく、あくまでも「今マチが抱えている課題を解決したい」という理由からです。

 その後も父、僕と事業の多角化は進み、今では本業含め10社のグループになりましたが、すべて成り立ちは同じ。ジビエ事業は、遠軽町でエゾシカの食害による農業被害が年間3,000万円もあり、駆除したエゾシカはそのまま処分されていたから。下宿は、全国的に強い部活がある遠軽高校に越境入学したい生徒が大勢いるのに、「住む所がない」という問題があったから。

 どれも、課題の解決策を見つけたら、それが仕事になったというわけです。始まったばかりの多角化事業の収支はまだまだトントン。頑張れる原動力は「渡辺組は地域のために頑張っているな」という地域の評価でしょうか。祖父も父も僕も、地域貢献が当社の使命だと思っていますので。

 社員にも、「この地域は俺たちが守っている」という責任と誇りみたいな意識が根強くあります。経営ビジョンは「オホーツクに最も必要な会社」になることで、今後もずっと、この地域の基盤的な存在でありたいと思う。僕も、家業を継ぐというより、いかにオホーツクを守り発展させていくかという意識のほうが強いんです。我が社の社訓「先義後利」(まず義があり、利益は後から)の精神に則りつつ、「令和版」「渡辺勇喜版」でやっています。

インタビューの様子1
2018年にオープンした高校生下宿「MIRAI LODGE」

大手航空会社での13年間で学んだこと、
積み重ねた経験が基盤です。

 就活では、当時倍率800倍といわれた大手航空会社に採用され、13年勤めました。この企業で得た経験が、今も僕の基盤として活きています。異色なんですが、一度も空港関連の勤務がなく、辞めるまでずっと営業企画マーケティング系のみ。その分野は大好きでしたから、新入社員の頃から企画書をどんどん上司に出しました。すると次々、「自分でやってみろ」となり、最後は「自分の好きなことばかりやれている人」みたいになっていましたね。家業を継ぐと決めた32歳の時には、やりたいことはやりきった感じでした。

 退職直前はウェブサイト管理者や公式アプリ制作担当を経て、グローバル地区の責任者としてアジアや中国を中心に飛び回り、最後にはふるさと納税の事業開発担当にもなりました。

 世界のあちこちでよく言われたのが、「北海道出身?すごい!うらやましい!」。あらゆるものが素晴らしい世界的なブランドエリアとして羨望の眼差しを浴びたんですが、同時にモヤモヤと違和感も覚えました。というのも、僕がふるさと納税の営業に回ると、道内自治体はどこも反応がいまいちで、熱量が非常に低いんです。逆に九州では食いつきがすごくて、役場の人も自分のマチをぐいぐい推してくる。北海道は若者が少ないから盛り上がりに欠けるのか、一次産業のクオリティが高いから付加価値の意識が低いのか、憧れと実態の間でだいぶギャップを感じました。

 マーケティングの最前線にいた僕の目からは「もっといっぱいできることがあるはずなのに!」と見えてしまい、「じゃあ、自分がやるしかないな」と思ったんです。1つ1つ、自分が思う課題は「1人称(自分事)」でやってクリアするべきだと。戻ってからいろいろやり始めたのには、そういう背景があります。

デザインの大切さを知る強みで、
ジビエのリピーター増へ。

 東京の大企業に勤めた経験は大きいですね。仕事の仕方や人との付き合い方、基本的礼儀など全部含めて、きちんと身につけたから今があると思う。思考能力が鍛えられたし、デザインのアピール力を知れたのも強みになりました。

 たとえばジビエを売るにしても、パッケージが田舎くさくては手に取ってもらえない。うちは品質はもちろんビジュアルにもこだわり、そのおかげもあってかファンもリピーターも増えました。腕利きのハンターたちが仕留めたエゾシカをものすごく厳しい基準で仕入れていますので、味には自信があります。その肉が、東京の星付きレストランで5万円ディナーのメインになったりするのですから、彼らも誇りに思ってくれていると思います。

インタビューの様子2
徹底した品質管理とビジュアルにこだわった「エゾシカの缶詰」

危機感を持って人材確保を。
企業委託生制度も導入しています。

 当社の経営危機は地域への責任として絶対避けねばならない。そのためにも人を育て、本業をしっかり維持しなければという危機感はものすごく持っています。人材確保には相当力を入れ、若者のインターンシップを積極的に受け入れるのもその一環ですし、遠軽高校から普通科の卒業生を採用し、入社後に専門学校に派遣する企業委託生制度も実施しています。

 良い人材の確保は、徹底的に会社をPRして、接点を持ち、学生1人1人との対話にどれだけ時間をかけたかに尽きる。本当に地道ですが、僕は率先して自分でやりますよ。説明会には私服で行き、学生に親しみを持ってもらいやすいようにしています。

コロナ禍で、
考えに考え抜いて見つけた、「まだやれること」。

 社長就任は、コロナ禍の真っ只中。グループ全体にダメージを受け、相当苦しい思いをしました。でも、苦しい中でも「まだ何かやれることがあるはずだ」と考え、考え尽くした末、「やれること」を見つけて挑んだ2年間でした。本業では業務改革プロジェクトを立ち上げ今までの仕事の仕方を徹底的に見直していきました。ホテルでは、利用客減少で空いている駐車場をキャンピングカーが停められるようにRVパークの申請をして、夏じゅうひっきりなしのご利用を頂いたりなど。

 発熱患者外来施設としての貸し出しという予期せぬ用途を生んだトレーラーハウスは、元々、普段は宿泊施設に運用し、災害等があれば移動させて仮設住宅にするという柔軟さが地方自治体に適していると思い、積極的に営業をかけていたものです。開発は大手住宅メーカーと組むことができ、住宅同様の耐久年数を実現したほか、2年間の研究を経て寒冷地仕様を実現しました。置戸町では今、これを利用した厳寒のグランピングが行われています。また、太陽光パネルの設置も研究中です。

 うちは、祖父の時代からの家訓が「千慮無惑」。考えに考え尽くして答えを出したら迷わずそこを突き進め、というような意味ですが、僕なりに考えに考えて実行したことが、いま答えになり始めています。経営者になる自信が元々あったわけじゃありません。今も不安だらけです。地味なことを1つ1つやっていくしかない、と思っています。

インタビューの様子3
寒冷地にも対応したMade in 北海道のトレーラーハウス

アトツギへのMessage

「自分がやる」という思い、テクニック、
そして実行力が事業推進の鍵。

 会社や社長はこうあるべきだ、みたいな、評論家めいた「べき論」は好きじゃありません。いくら言っても何も始まらないからです。机に座っているだけでは何も進まないし、言うだけで実態が伴わなければオオカミ少年と同じ。

 何事も、「自分事」としてどれだけできるか。失敗してもいい。むしろ失敗したほうがいい。北海道はまだまだポテンシャルが多い土地なので、「そこは自分がやるぞ」という思いが必要。そして、テクニックも必要です。デザインとか、発想とか、技術的な仕事の要領とかですね。

 たくさん人と会って、いろんな人の話を聞いて、視野を広げるのも大事。どこにビジネスチャンスや発展性があるのかを見極め、頭を絞り、最後は行動力・実行力で、いかに事業を強烈に推進するかにかかっています。

渡辺勇喜
渡辺勇喜
1982年、遠軽町生まれ。札幌の中学・高校を経て北海道大学経済学部を卒業後、2005年に全日本空輸株式会社(ANA)入社。福岡支店にて代理店営業、2009年からは本社にて国際線の販売責任者、2012年からはマーケティング本部・デジタルマーケティングの責任者を務めた。2018年に家業を継ぐべく退職し、渡辺組・取締役社長室長に就任。翌年、代表取締役副社長就任、2020年に代表取締役社長に就任。現在は全10社のトップとして多角的に采配を振るう。
会社概要
建設業
株式会社渡辺組
紋別郡遠軽町南町3丁目http://watanabe-gumi.com/
北海道開拓期の明治39年(1906年)に総合建設業として創業。現在は建設業を柱に、不動産賃貸事業、発電事業、山林保全事業、建設資材販売、食品加工販売、ホテル、飲食店、清掃業、アグリ事業、木材加工販売、高校生下宿運営、ホタテ加工販売、ジビエ事業と、本社およびグループ会社10社にて多岐にわたる事業を展開。